喧騒と俄か雨

街を歩く。
休日の繁華街は人でごった返している。
すれ違う人生。
すれ違う人格。
一つ一つを意識していたら気が狂う。
いい尻をした女も
足を引きずって歩く浮浪者も
いらついているサラリーマンも
ホスト崩れも、
それを追いかける姦しい女の集団も、
すべてただのオブジェクトで、
俺の中には存在していない。
一人であることに、喜びを覚える。





もちろん、俺もここに存在していない。










雲が多少あるがいい天気だ。
雲のない空は退屈だ。
コントラストは対極があってこそ成立する。










ジャケットのポケットから携帯電話を出し時間を確かめる。
まだ昼前だが何か食おうか。
周富徳の店で中華を食うか。
つるかめ食堂でとんかつ定食を食おうか。
中村屋でカレーを食おうか。
いっそ24時間営業のつぼ八で酒でも飲んでやろうか。




と、考えたところで気がつく。




頭の中には常にコトバがあって
コトバによってモノを考える。
口からアウトプットすることによって
コミュニケーションをとるわけだが、
一番コトバがリアルに生きているのは
頭の中だけだ。





アウトプットを生業にしている人たちもいるわけだが。
それを少し口惜しく感じた。
残念ながら俺にその能力はない。









スクランブル交差点を渡る。
信号が変わった途端に
一斉にスタートにた人々は、
それぞれのゴールに向かいまっしぐらに歩き出す。
なんだか嫌いなんだこういう交差点は。



と考えながら歩いていると
対岸から3歳ぐらいのハンチング帽を被った男の子が歩いてきた。
なんでこんな小さい子が一人で?
と思わず見つめてしまう。
少し笑顔になる。
子供は無条件でかわいい。



子供は俺を見て、
しかし俺に向けてではなく、
宙に向かって
ぼそっとつぶやいた。
「ワカッタンダ。ワカッテルンダ。」







そして無表情で振り返り、走り出してしまった。
信号が替わり、道の中腹に取り残されてしまう。
子供は対岸の人ごみの中に消えてしまった。









ぼんやりと考える。
一番リアルなコトバを持っているのは
ああいった子供なのではないだろうか?
コトバは種類の多さが重要なわけではない。
何を、どうやって伝えるかが重要なのだと思う。
その手法において、子供に大人は勝てない気がする。
時間は呪縛だ。
その呪縛のせいで、
種類の多さと引き換えに
大人のコトバは輝きを失う。





0には戻れない。
7より1のほうが、強い。













と考えたところで、わずかに風が吹いた気がした。
次の瞬間、冷たい雫が顔に落ちてくる。
信号が変わる。
信号待ちの人々が一斉に走り出す。






空は晴れているのに
勢いよく雨が降ってきたのだ。
みんな顔を歪めて走っている。














ば  た  ば  た  ば  た  ば  た  ば  た




た  か  た  か  た  か  た  か  た  か























伊勢丹の軒下に入る。
大勢の人が雨宿りをしている。
埃ののにおい。
雨のにおい。
太陽の熱が一瞬で奪われたにおい。






無作為な、無自覚な集合体となった人々の
どよめきに似たコトバでごったがえす。
雨は止まないのに
未だに空は青いままだ。






幼いころこういった現象を
「キツネノヨメイリ」と呼んでいた。
ぼそっと口に出してみる。
幼いころと同じニュアンスは表現できなかった。
化粧の落ちかけた女が怪訝そうに俺を見る。
曖昧に目をそらす。




止まない雨に苛立ちながら考えている。
どうしたら取り戻せるか考える。




失くしたコトバを。
あの日確かに持っていた、
リアルなコトバを。


























                                                                                                                • -









ってのはすべて嘘です。
今日はそんなことしてましぇーん。


あうあう。(2007年上半期俺内流行語大賞最優秀候補)
なんて便利なコトバなんだあ!!!






バンド練習して酒飲んで今マンガ喫茶にいます。
蟲師読もうかな。




リッパーベースを弾いてみたけど
音が硬かった。
トーンとトレブルを落としたりしてみたけど
低音がものたりない。
アンプに依存するものなのかわかんなかったけど
どうだろう?
あえてがりがりな音作り路線をいったほうがいいのかな?





LEEという店の餃子がうまかった。
またいこ。