紺碧の空

トニーじいさんは3月に死んだ。
溌剌とした、活きの良いじいさんだったけど
終わりはあっけなかった。
新年恒例の町内会の寄り合いで
大酒を飲んで帰り、
いきなりあったかい部屋に入ったもんだから
頭の線が切れてしまったのだ。
次の日にはお通夜の準備に親たちはバタついていた。




トニーじいさんの本名は亀作という。
競馬好きの亀作じいさんは
イタリア産の競走馬の名前で自分を呼ばせようと
周りに迫っていたが、
トニーなんとかなんて長い名前を
誰もちゃんと覚えちゃくれない。
結果アタマのトニーだけが愛称として残った格好だ。
日本人なのにトニーだなんて。
ってばあちゃんがよく嘆いてた。






もう物心が付いたときには
じいさんはあのプレス・カブに乗ってたから
相当な年代物なんだろう。
でも壊れたなんて話は聞いたこともない。
バイク好きなクラスの友達は
「あんな新聞配達とかおじいちゃんしか乗ってねえようなカブだけど
実は頑丈だし燃費も凄いいいんだぜ!世界中で見かけるんだぜ!すげえんだぜ!」
って言ってた。
おれにとってこのバイクの色は「濃い青」なんだけど
じいさんはいっつも「コバルトブルー」って訂正して、歌った。
こ〜んぺえーきーのそーおらー
あーおぐにっちりーん〜
・・・・・ってかあ?
って歌のあとに必ず付ける、
じいさんのクセ。









小学生の夏休みに、よくトニーじいさんに海に連れてってもらった。
トニーじいさんの濃い青のプレス・カブに二人乗りで。
白いランニングシャツに作業ズボンなじいさんのケツで
海水パンツ一丁で早くも臨戦態勢なおれ。
じいさんはいつも土みたいなにおいがした気がする。
濃い青のカブのアタマと、じいさんのヘルメットのアタマに、
入道雲が写り込んで流れてくのが面白くて
荷台に立ち上がって乗るのが好きだった。怒られるけど。














じいさんの形見分けの時、
おれは真っ先にプレス・カブをチョイスした。
家族一同はいい顔をしなかった。
おれはまだ高校生で、
免許もない上に、学校でもバイクは禁止されていたからだ。
高校を卒業するまではバイクに乗りません。
なんて誓約書まで書かされてなんとか納得してもらった。









近所の自転車屋のおっさんに
カブの操縦方法を聞いたけど教えてくれなかった。
自転車乗るようなもんだから、とっとと免許取ってこい!
だいたいうちは自転車屋だ!
って言われて相手にされない。
クラスの奴に聞いても良かったけど、
そしたら絶対乗せて乗せてみたいなことになる。
じいさんの形見なんだから、なんて
変な自制心が働いて
なかなか言い出せずにいた。







そんなこんなで、無理してでも乗ってみたい!
って強く思っているわけでもなかったから
庭の端っこにあるだけのモノになりかけていた。







蝉の声のやかましい、
友達が誰も掴まらなかった、つまらない日。
家の中には夏休みの俺と小学生の妹だけ。
いらいらと縁側で爪を切っていると
目に止まった、コバルトブルー。







初めは様子見程度に思ってた。
カブを引いて表に出る。
だいぶ遠くなっていたじいさんが
どうやってこれに命を吹き込んでいたか、思い出す。
鍵を回してから、確か何かを踏んづけてた。


ぐるるん。ぐるるん。ぐるるん。


ぐるるん。ぐるるん。ぐるるん。



あれ?こうじゃないのかな?
もう一度。




ぐるるん。ぐるるん。ぐるるん。


ぐるるん。ぐるるるるるるるるるるるるるるうう




おお、かかった!エンジンがかかった!
ここまできたら、動かしてみたいよな。
とりあえずスタンドから下ろして
またがってみる。
友人がバイクに乗る形態模写してみせるとき
手首をくいっとひっくり返してたのを思い出す。
・・・こう?


ぐおおおおおおおおおおおおおおおおん


音にびびって手を離す。
こんなやかましい音が出てるのにまったく進む気配がない。
んんんんん。確かじいさん、足下でなんかしてた気がするな。


右足でペダルを踏んでみるが、手応えがない。
後の明かりがついたから多分右のスイッチはブレーキなのかな?
んじゃ左?
がちゃ!と支えがとれたような小気味良い音が鳴った。
それでもまだ、じいさんのカブは動かない。
恐る恐る、
だけど後から考えればあきれるぐらい大胆に、
もう一度右手を返してみる。
うおおおおおんっとカブは勢いよく飛び出して
びびったおれはまたしても右手を戻す。
自転車みたいにブレーキを握る。
前につんのめりそうになりながら
カブは止まった。




おおおおお。
動いた!
首ががくってなった!
すげえええ!



住宅街の、
あんまりに真っ白い外壁が
あんまりに眩しい夏の日の、
急で、長い、上り坂の入り口で
白く、長く、息を吐く。
リズミカルに刻み込む音と共に
半年ぶりの外の空気を吸い込んでる。
トニーじいさんの、コバルトブルーの、プレス・カブ。








今度はゆっくりと
右手を返してみる。
ぶううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
プレス・カブは低くうなり散らして
あの鬱陶しい、長く急な坂道を上っていく。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
声にならない声が漏れる。
かましい音が、蝉の声を蹴散らす。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
空が近づいてくる。
「ギヤ」というものに気づいたのはそれから数十分後だったが、
後から考えれば一速のままで、ゆっくりと、空に向かっていたおれは、
少しだけ涙目で。瞬きを繰り返してて。
やはり声にならない声を漏らし続けている。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおわあああああ!







紺碧の空。


仰ぐ日輪。




トニーじいさんと、海に行って来る。